ないれじ/nicelegend’s blog

九州大学三年生(21)。趣味やら学んだことやら日記やらを書いてみようかなと思います。

唐船峡 めんつゆ 開け方

最初揖保乃糸のめんつゆの開け方が最初わからなかったので一応
白い蓋なんだこれ?無理やりちぎって大丈夫なのか?とかなってる人もいるはず...(自分だけじゃないと思いたい)

1.白い蓋を外す(白い蓋は残った分を保存する用です)
2.王冠を外す(普通に栓抜きで)
3.白い蓋を再び付ける

マヨネーズでの赤い蓋=白いめんつゆの蓋
マヨネーズの銀フィルム=めんつゆの王冠
みたいな感じです(伝われ)

唐船峡 唐船峡めんつゆ 1000mlwww.amazon.co.jp 648円(2019月10月23日 21:51 詳しくはこちら) Amazon.co.jpで購入する


P.S 意外とこの記事アクセスあってビックリしてます。

「ボカロで覚える高校世界史」感想

 世界史に対しては良い思い出がない。高校の時、世界史Aを受けていたものの、遠い昔に遠い地で起きていた出来事に一切関心を持てず、とりあえずそれなりに暗記だけして乗り越えた科目だ。
 しかし大学に入り、色々と経験する中で世界史の知識の必要性を感じた。
本読む中で出てくる出てくる世界史の用語...全然頭に入ってこないやばいということで購入したこの本。
 「ボカロで覚える高校世界史」世界史をテーマにしたボーカロイド楽曲に合わせて楽しく世界史の知識を身につけてしまおうという参考書。

 第一印象は、世界史という薬をボカロという糖衣で包んだ糖衣錠なのかなというもの。しかしその予想を超えてきた。
 先の比喩を踏まえてこの本を表すなら、糖衣がゴディバ製で、気づいたら薬の苦味を感じなくなっている。そんな参考書って感じ。(動画note下↓)

どの曲も面白く、クオリティが高いが、個人的には特に
「歩きスマホの道はローマに通ず」と「銃声の交響曲
の2曲が好き。
「歩きスマホの道はローマに通ず」は家の裏でマンボウが死んでるPが手がけた曲。クワガタにチョップしてタイムスリップしたりする彼の世界観ならではの楽曲。歩きスマホは怖いなと思いました(小並感)
なんか悔しいけどこれで古代ローマ史ざっくり頭に入る...
「銃声の交響曲」は40mPが制作。シリアスカッコイイ曲...テーマが世界大戦ということもあり軍靴が聞こえてきそうな雰囲気の一曲。
 全体的に面白い楽曲揃いでボカロCDとしても良い(楽曲視聴)

教科書を全員に渡すだけでは成し得なかった、「関心を持たせる」ことに特化した参考書として固有の立ち位置を持ちそうだ。
これ一冊では不十分だと思うが、本格的に一問一答なんかに取り組む前のモチベーション向上に効果的なのかなと思うと同時に、もう一年早く出してくれればと思わざるを得ない。


ベネティクト・アンダーソン グローバリゼーションを語る/読書memo

大学の授業「文化人類学入門」のテスト対策を兼ねて調べたことを自分用にまとめるnote。

ナショナリズムについて調べるため、とりあえず手元に置いたのが以下の資料。
ナショナリズム論・入門(大澤真幸姜尚中 編)
・民族とネイション ナショナリズムという難問(塩川信明)
・ベネティクト・アンダーソン グローバリゼーションを語る(梅森直之編)
・増補 想像の共同体(ベネディクト・アンダーソン著)

とりあえず新書でとっつきやすそうな「ベネティクト・アンダーソン グローバリゼーションを語る」から読むことにした。想像の共同体の著者自身の講義を元に、編者の解説を加えた構成だ。


ベネティクト・アンダーソン グローバリゼーションを語る/読書memo

しかしアンダーソンは、このナショナリズムが作用する「舞台」を、「世界」全体と捉えた。すなわち、彼は、個別的なナショナリズムの構造や特質についてではなく、むしろそれらの関係に着目することで、そこに作用する「力」の質と大きさを明らかにしようと試みたのである。こうしたグローバルな「舞台」の設定こそが、アンダーソンの方法を、他の研究と区別する最も重要な点の一つである。...グローバル思想史とも呼ぶべき新しい学問分野を切り開いとことが、「想像の共同体」というテクストの決定的な新しさである。(p136)

アンダーソンは「想像の共同体」を生み出した背景を時間と空間の両面から描写する。
・同じ時間を生きているという感覚(同時性)
・同じ境界の内部に属しているという感覚(限定性)
が共同体という感覚を成り立たせる2つの要素である。

「時間」の同時性
=>「均質で空虚な時間」
今私たちが考える時間は見知らぬ他人同士の間にも、今共に生きているというつながりを作り出していく。(東京の人も沖縄の人も1/27 14:23を過ごしている、というように。)

 そんなの当然だ。と思うところだが、アンダーソンはそうした時間感覚は歴史的な産物であるという。では一体他にどのような時間感覚があるというのだろう。彼は、「メシア的時間」を例に挙げた。

 メシア的時間とは、教会のステンドグラスの人物がその絵の中での時間にあった服装ではなく、その作品が制作された時代と場所にふさわしい形で描写される事実から見て取れる時間観念だ。これまでそうだったことはこれからもそうであり、また今そうであることは過去においてもそうであるという時間観念とも言えるだろうか。
 
「空間」の限定性
・出版資本主義による「標準語」の発明
標準語は出版産業が確立する時期に「書き言葉」として登場した新しい言葉。出版が産業として成り立つためには普遍的に誰でも読める言葉を使う必要がある。(鹿児島弁とかだとみんな読めない)

 そこで登場したのが「標準語」。日本に住む人皆がこの標準語を使うことで統一的な市場が形成される。標準語を使えるものとそうでないものとを区分する境界を分ける限定性を孕んでいる。

アンダーソン曰く
「日本人が日本語を話すのではない。日本語(標準語)を使うことで日本人になるのだ。」

・新聞という共同体
新聞を読むという行為は、北海道から沖縄までこの列島に暮らす見知らぬ人々の間につながりを作り出す儀式である。すなわち新聞を読むたびに、同じく新聞を読む他者の存在を意識することで、共同体(例えば日本人)としての帰属確認を行なっているというわけだ。

「均質で空虚な時間」で開かれた人間のつながりが「出版資本主義」の境界によって囲われる。この「解放」と「閉止」の同時進行が、「国民」という想像体を可能にするメカニズムだ。

---------------------------------(以上メモ)---------------------------------



それはそれとして、読む中で心に残る文があったのでメモ。

本質主義はこう答える。「それはあいつが女(男、韓国人、中国人、日本人、黒人、白人、ムスリム、クリスチャン...)だからだ。」こうして僕たちは、誰かを理解したような気になり、そこで考えるのをやめてしまう。だから本質主義は、決して誰かを深く理解することには繋がっていかない。「本質」とは僕たちが「誰か」を理解する努力を放棄して引き返した場所に立てられた白旗のようなものだ。
(ベネティクト・アンダーソン グローバリゼーションを語る.p126)

ナショナリズム→ネーション→アイデンティティと辿る中で出てきたこの文。よくtwitter上で見かける「〇〇人・男/女性はこうだ...」という決めつけ&それに伴う差別的言動に答えている。

ブラックな塾バイト


先日、塾でのアルバイトを始め(ようとし)た。
私も中学生の時は塾に通っていた&受験勉強で得た知識を生かしたいということで紙面の条件で応募、採用されたのだが、その実態がかなりブラックな感じだったので問題提起を兼ねてnoteにもまとめておこうと思う。(以下ツイート↓)

この件に関して自分が思うことは大体この連ツイに纏めてあるので特別追記することはないが、このように「生徒への情熱を人質にして、大学生に悪条件での労働を強いる」のが学生バイトを雇う塾のビジネスモデルなのだろうか。

他の塾はそうではないと願いたい...

時間について

一度過ぎてしまうと時間は早い。まるで最初から無かったみたいだ。
高校に入学した時、
「きっとあっという間に卒業するんだろうね。」なんて話していた。
いざ卒業してみると、実際にあっという間だった。

自分は今19歳で、まあ80歳まで生きるとしたらまだ1/4しか過ごしていない。だけど今までの経験から察するに、きっと、80歳までも"あっという間"なんだろう。



「youtubeが変えた音楽消費"PVと一体化した作品"」1999

こんにちは。折口です。
このnoteは#ミレニアルnoteとして二作目、通算四作目のnoteです。
 前作の投稿では生まれて初めて自分が書いた文章でサポートを頂き、感無量でした。応援に見合うだけの内容をお届けしていこうと思います。
 自分が書いた文章を読んでもらい、感想・反応をいただけることは本当に嬉しいことですね。こうした機会を得られたことに感謝します。

(以下常体でお伝えします。書きやすいので...)

目次・初めに・アングラ感が強かったネット音楽(~2013位)・ネット音楽の浸透&洗練・PVも作品:芸術的なアニメPVの登場・総括

・初めに
 前回は(学習編)ということで私たち世代に訪れた変化をお伝えしたが、このnoteでは私たち世代の音楽消費について
youtubeが変えた音楽消費"PVと一体化した作品"」と題し、一部の物好きが好む音楽から大衆が好む音楽への変遷、またそれに伴い作品自体に現在訪れている変化についてお伝えする。

**
(1) まだアングラ感の強いネット音楽(~2013位)**
 初音ミクが発売(2007)され、ニコニコ動画を中心にボカロ曲が爆発的に流行。ただしブーム当初はパソコンを使える小学生はごく僅かで、私たち世代がボカロを聞き出したのは中学生(2011~)といったところか。まだ当時ボカロ曲は "オタク的"と見なされる傾向にあり、偏見も強かった。
 この頃、PVの多くは初音ミクボーカロイドののイラストを使用。初音ミクという仮想歌手が歌っている認識が強いことの表れだろうか。

[この時期を象徴する楽曲]
千本桜 黒うさP(2011)

マトリョシカ ハチ:米津玄師(2010)

(2) ネット音楽の浸透&洗練 
  自分が高校生(2015~)の頃になると、同級生の大半はスマートフォンを持つようになり、学生は皆youtubeを使う状況になった。
 この頃にはCDを買うという文化は絶滅危惧種となっており、またアーティストが動画サイトに作品を乗せることも珍しく無くなっていた。

 youtubeユーザーの増加に伴いネット音楽もより広い層に浸透していった。ボカロp(ハチ)としての側面も併せ持つ米津玄師はその象徴とも言えるだろう。
 また動画サイトでの活動を起点にプロデビューする者が続々と登場した。

[この時代を象徴する楽曲]
アイネクライネ 米津玄師(2014)

(3) PVも作品:芸術的なアニメPVの登場

(以下敬称略)
 旧来CDによる音楽消費では聴覚的な表現しかできなかったが、youtubeの登場により視覚的な表現が可能になり、新しい形での音楽体験が生まれた。

 youtubeが音楽消費において重要な役割を担うようになったことに伴い、PVの芸術性も増した。
初音ミク他ボカロが主役のPVは減少し、作品の世界観とを表現したPVが増えてきている。

 そこでイラストレーター・動画製作者に焦点を当てて紹介しようと思う。

 私の表現力不足のため十分にその良さを十分に伝えきれないのがもどかしいが、百聞は一見にしかず、ぜひ一度作品を見ていただきたい。

waboku:独特の色使いと個性的なキャラクター
 ずっと真夜中でいいのに。による楽曲『秒針を噛む』は一作目ながら1300万再生を超えている。アニメ調の塗り方をされているが、輪郭線は一般的なアニメとは異なり手書きの線を残していて、有機的な存在感を放っている。
 アンティーク調の彩色・異世界情緒のある小物・感情豊かな主人公、そして楽曲。それらの要素が一体となって新しい音楽体験を生み出している。


Mah:省略の上手さと退廃的でクールな世界観
 初めてこの動画を見たとき私は衝撃を受けた。ラフな筆使いで描かれるこのアニメーションは日頃放映されるアニメとは違った魅力を醸し出している。『ドラマツルギー』(作詞作曲:eve)は2300万再生を達成。曲をそのまま絵にしたような世界観で人気を博している。
 彼の作品では、一本の線に込められた情報量が非常に多い。キャラクターの輪郭も表情も、線の強弱と濃淡で表現されている。


アボカド6:無題のないシンプルな色使いと強いメッセージ性で人気
 バルーンによるこの楽曲「シャルル」は10代のカラオケランキングにおいて米津玄師をしのぎ一位をとるなど、現在の中高生に広く支持されている曲だ。
 彼はイラストレーターとしての人気も高く、twitterのフォロワーは110万人を越している。使用する色を絞り全体的にシンプルかつ綺麗な印象だが、そのメッセージ性は強い。


挙げた三名の他にも、数多くのクリエイターが活躍している。
・はるまきごはん:曲も絵も動画も製作、個人的にこのキャラ↓好きである。

・大鳥:漫画の中から飛び出てきたようなデザイン。不思議な親近感を持つ

・総括
 このnoteで取り上げた楽曲・クリエイターは全体のうちごく一部で、他にも多くの素晴らしい作品がある。また今後もそうした作品は増えていくだろう。
 動画という音楽・アニメーションが同時に楽しめる形式に対応して、我々ミレニアル世代の音楽体験はこれからも変化し続けるのではないだろうか。



#ミレニアルnote・1999(教育・学習編)「スマートフォンがもたらした革命」


 こんにちは、折口と申します。

自分は1999年生まれ、現在九州大学に通う一年生です。
Daiさんのこの企画 #ミレニアルnote が面白そうだったのでnote書いてみます。

このnoteで通算三つ目の記事です。まだ未熟な点も多いかと思いますが、しばらくお付き合いいただけたら嬉しいです。

執筆の都合上、以下常体で述べさせていただきます。(書きやすいので...😅)

目次

・導入
・私が受けてきた教育
 ・スマホ登場以前の教育(小〜中)
 ・スマホ登場後の教育(高〜)
      
・これからの教育・学習はどうなるか?
・総括

・導入
 このnoteで私は、ミレニアル世代の教育・学習について述べる。私たちの世代における教育・学習は、インターネット普及の影響を大きく受けて変化しつつある。無論無数の要素があるため一概には言えないが、中でも特に大きく教育を変えた引き金となった物がスマートフォンだ。

・私が受けてきた教育  
初めに、私というサンプルが受けた教育について...
・小学→中学→高校→大学というルートで進学
・塾には小6〜中3の間通う
・高校は(自称?)進学校
こうして見ると、どこにでも居るありふれた学生の一人といった感じだろうか。

( 1 ) スマホ登場以前の教育(小〜中)

 大多数の学生は学校の授業からのみ勉強し、一部の生徒は塾もしくは家庭教師により追加で教育を受ける。
 "学校の言うとおりにしていれば大丈夫"と言う価値観が、良くも悪くも存在する。そういった意味で教師は"師匠的"であり、生徒からすれば絶対的な存在。
 また大衆教育であるがゆえに多くの学生を画一的に扱う必要があり、そのため個性<<規律となる傾向にある。

( 2 ) スマホ登場後の教育(高~)

 スマートフォンの登場により、ミレニアル世代を取り巻く教育は一変。様々な教育コンテンツのなかで特に大きな変化をもたらしたのが、映像授業とスマホアプリである。

映像授業の登場
映像授業は場所を問わずパソコンやスマートフォンから授業を受けられるサービス。中でも特に浸透しているのが、スタディサプリだ。(https://studysapuri.jp/)
月千円という低価格ながら自宅でいつでも高品質な授業を提供する、このサービスがもたらした変化は大きく分けて三つある。

・授業の流通拡大
 旧来有料授業(塾他)は経済的に余裕のある家庭が利用する傾向にあったが、スタディサプリはその状況を一変させた。スマホの普及により1000円/月 という薄利超多売が可能となり、やる気さえあれば万人が高品質な授業を受けられるようになった。この事実は経済的理由により塾・予備校へ通えない学生にとっての光明となった。

・学生への代替案の提供
今までは学校による授業の力が非常に大きかった。担当の教え方と相性が悪ければ、そのまま "自分には〇〇の才能がない"と挫折してしまう学生も多い。そうした状況において、映像授業は学生を救う救世主となった。
 この事実は学生に「才能が無いんじゃない、学び方が合ってなかったんだ」というパラダイムシフトをもたらす結果となった。

・優秀な学習用スマホアプリ

映像授業だけでなく、勉強の心強い味方となるスマホアプリも多数登場した。ここではその一例を紹介する。

・mikan
英単語学習アプリ。DL数は200万以上。高校対抗での競争要素などエンタメ性も強く、続けられる工夫が施されている。"スキマ時間"を勉強に活かすにはスマートフォンはこれ以上ないツールとなる。

・StudyPlus
勉強時間記録用SNS。参考書のレビュー昨日やフレンド昨日で共に勉強する仲間を探すことができる。

youtube
youtubeは学習動画も豊富だ。家庭教師のトライが製作する「Try it」、個人youtuberでは「超わかる!高校数学」など無料の授業動画が豊富。

・質問サービス(知恵袋他)
yahoo知恵袋はスマホ登場以前から人気のサービスだが、スマホにより質問回答共に利用しやすくなった。分からない問題を質問すれば、1日たらずで回答を得られる。(回答者の方には感謝してもしきれないです...。)

 スマートフォンは何かと勉強の敵とされがちだが、付き合い方次第では心強い味方となる。スマホをただ時間を潰すだけのものとするか、それとも上手く付き合い勉強の効率を上げルものとするかが今後の勉強を左右する要素となる傾向は今後も続くだろう。

・これからの教育・学習はどうなるか?

 現在私たち(1999年生)は大学一年生に相当する年である。まだまだ多くのことを学ばねばならない。そんな私達が現在以後どのように学べるだろうか。

 個人的な予想としては、映像授業がさらなる発展を遂げると思う。
スタディサプリではあくまで大学受験のための授業中心であったが、これから(大学以降)は、更に広い分野を扱う映像授業が私達世代の支えとなるだろう。
Udemy 
coursera
edx
といったサービスは世界中の講師、教授から講義を受けることを可能にする。まだ日本語字幕が十分とは言えないが、ある程度英語ができれば理解可能なので大学生や社会人による利用が増えそうだ。 

 映像授業の他に、もう一つ重要な要素がある。SNSだ。
例えばTwitterやnoteは第一線の研究者や著者、プログラマ等と直接繋がる機会を提供することで誰でも最新の情報を学ぶことが可能になった。所謂"学習の高速道路"の形成にSNSは欠かせないだろう。
 
・総括
 ミレニアル世代の教育・学習はスマートフォンの登場により劇的に変化した。学校が絶対的ではなくなってきていることは、形式ばかりで中身のない教育を揶揄する "自称進学校"なる言葉にも反映されている。

 学校という団体に所属していることで得られる階級意識は今後徐々に意味をなさなくなり、学歴にかかわらず自ら学ぶ方法を模索できる者が"学習の高速道路"を使いこなし前人未到の高みへ到達するのではないか。

 口を開けて餌を待つ者から自分で餌を探しに行ける者に変わることができるかが我々世代を分けるポイントとなりそうだ。(終)







最後まで読んでいただきありがとうございました。
ちゃんと書けてるか心配ですが..

ガッツさんもこう言ってることですし経験や知識の不足を認めた上でこれからも勉強しつつ積極的にアウトプットしていこうと思います。


よろしければ前記事もご一読ください。一年やたら短く感じるのはどうして?っていう記事です。